手塚治虫は諸星大二郎の絵をどう評していたか

2024/03/16 by hrk | 調べた

手塚治虫が「大御所」になってからも若いマンガ家に対してずっとライバル心を燃やしていた、という事をよくあらわすエピソードの一つとして、当時その絵の斬新さで話題になっていた大友克洋に対して「君の絵はボクでも描ける」と言った、という有名な話があります。多くの人が一回くらいは読んだり聴いたりした事がある話だと思うんですが、さらにその話は「でも諸星大二郎の絵は描けない」と続きます。

諸星大二郎のファンとしては、この後半の方が気になるんですよね。手塚先生はどういう気持ちで諸星先生の絵に言及したんでしょうか。純粋に「マネしようとしてもできない」絵柄だと感じていたのか、特殊な・変わった絵だと思っていたのか、もしかしたら大友先生と話しながら「新人マンガ家に強く当たってしまった」と感じて、なんとか話にちょっと面白いオチをつけようとして諸星先生の名前を出したって可能性も、あるかも知れない……。このエピソードだけだと手塚先生が諸星先生の絵柄をどう思っていたのかいまいち分からないなと思っていたところ、手塚先生が諸星先生の絵柄について語っている資料がいくつかある事に気がついたのでまとめてみます。

でもその前に、手塚先生のこのエピソードが事実なのか、確認できる資料があるのか探してみました。togetter「漫画界の伝説『手塚治虫は大友克洋に初めて会った時「君の絵なら描ける」と言った』を裏付ける証言が複数集まる」 によると、複数のマンガ家が証言しているらしい事がわかります。

永らく漫画界の都市伝説だと思われていた、手塚治虫が大友克洋に初めて会った時に「僕は君の絵なら描ける。僕が唯一描けないのは諸星大二郎の絵だけだ」って言ったというエピソードは「BSマンガ夜話」で江口寿史先生が「本当の話だよ。俺、大友さんに聞いたもん」という証言で事実認定されました。
異形 @igyou_ 午後9:00 · 2019年2月27日

該当の「BSマンガ夜話」は江口寿史先生がゲストの「手塚治虫スペシャル ブラック・ジャック」の回で、下記の様な発言がありました。

江口寿史「大友さんと手塚さんが会った時に、有名な話だけど、手塚さんが『ぼく君の絵は描けるんだよね』って言ったんだって」
(それっていしかわ(じゅん)さんがよくしている話?などと盛り上がる)
江口「『ぼく誰の絵でも描けるんだよね』って『諸星大二郎だけなんだ、描けないのは』」
(しばらく座が盛り上がる)
夏目房之介「そういうエピソードよく聞くんだけど、ホントなのかな、すごくリアリティありますよねそれ」
江口「大友さんが言ってたからね」
夏目「あ、大友さん本人が!」
?(大月隆寛か)「じゃあ間違いない」
(BSマンガ夜話 第22弾 第89回「手塚治虫スペシャル ブラック・ジャック」2002年04月3日放送)

伝聞ではありますが、大友先生から直接聴いた話という事で確度が高い情報です。さらにこちら

石坂啓さんが目撃されていて、昔、ラジオで話していましたね。
(MODA @tmoda2108 2019-02-28 00:34:20)
石坂啓さんのお話のアーカイブが残っていました。大友さんのお話は、18分当たりからです。 https://podcasts.tfm.co.jp/podcasts/tokyo/avanti/avanti_vol132.mp3
(MODA @tmoda2108 2019-02-28 11:00:27)
(元ツイートが消えているため 上記togetter記事 より引用)

のラジオ放送では、その場に同席していたという石坂啓先生による臨場感あふれる証言を聴く事ができます。

「そのころ出てきた若い漫画家の人たちが何人か手塚先生を囲んでというのに招待してもらったことがあって、十人くらい、同席させてもらったんですね。大友克洋さんとか、吾妻ひでおさんとか、寺沢武一さんとか、御厨さと美さんとか、沢山いらっしゃった中に大友克洋さんがいらっしゃってて。で先生よくよんで(引用者注:「沢山飲み食いして」の意味か)いらっしゃったんですね。でみんなが一緒にご飯食べてる中で『大友さんぼく君の絵を見ましたけど、君の絵すごいですね』って言ってね。『すごくうまいなあ』って『ぼくは虫眼鏡で見たけれどどんな小さい絵でも全然デッサン狂ってませんね』とかって言うわけ。みんなだって注目してた時期ですから、あの方が大友さんか、って。で先生やっぱり見てらっしゃるんだなと思って感心して聞いてたの。で、先生がさ『でもねぼくあの絵描けるんですよ』って言うわけよ。で大友さん謙虚でいらっしゃるから『あ、はあ』なんて。みんなはもう目が点ですよ。『ぼくねえ書こうと思えば誰の絵でも描けるんです』って、『ぼくが描けないのは3人だけ、諸星大二郎と』……誰って言ったかな。なんか3人ぐらいちょっと個性的な方の名前をおっしゃいましたね。個性的と言うかまあ路線の違う方ですね。路線違う方には嫉妬しないから。『ぼく大友さんの絵は描こうと思えばかけるんです』みんなシーンだよ(笑)嫉妬もそう、嫉妬もすごいですね、負けん気というか。『ああすごいね』って一応認めるけれど『いや俺だって』というか。」
SUNTORY SATURDAY WAITING BAR AVANTI PODCAST vol. 132 2008年10月4日)

なんと「手塚治虫でも描けないマンガ家」は3人いた!?という話ですが「諸星大二郎は描けない」という所が面白かったのか、現在ではそこだけが伝わってる状態ですね。

ところで、この食事会での発言は手塚先生も言い過ぎたと思ったのか、この後の対談やエッセイではまるで逆のことを言っていたりします。

(大友の絵を見ると影響されてしまうので、星野は見ないようにしている、という話の流れで)
星野之宣「で、あれ、描きやすいんですよね。」
手塚治虫「描きやすい?一時あんな絵描ける人いないなっていってたんだけどね。」
(手塚治虫対談集3「諸星大二郎 星野之宣 メジャーとマイナー」 同稿の初出は 1985年6月 月刊スーパーアクション 25号「スーパー鼎談 手塚治虫、諸星大二郎、星野之宣」)

絵のタッチについてはオリジナリティに溢れていれば、それは生涯の宝物である。大友さんはその宝物を両手いっぱいに持っている。どんなに他人が上手に真似ようとそれはまがいものであって価値はない。大友さんは世にもすてきな本物の宝物をぼくらに見せびらかす。ぼくらは驚嘆し、羨望し、憧憬してかなわないと思う。特にぼくはデッサンの基礎をやっていないから、こんな絵を見せられてはたまらない。一も二もなく降参するのだ。
(ユリイカ臨時増刊号 総特集:大友克洋「大友克洋のカミソリ感覚」1988年8月)

大友先生の絵は描けない、かなわない、と言っていますよね。もしかしたら食事会での発言は、才能ある若手を前にしてつい思ってもいない強がりを言ってしまった、という部分があるんじゃないでしょうか。

ここでやっと本題の、手塚先生が諸星先生の絵について語っている内容を見ていきましょう。

(1974年「生物都市」の手塚賞入賞を振り返って)「まあこれは苦言なんだけれど、諸星さんの画は洗練された画とは言えないわけです。今は別として、あの当時は。アイデアは非常にいいんだけど画がもう少しあかぬけないだろうか、という意見がかなりありましたね。諸星さんの画っていうのは、アイデアに負けてる部分があると思うんです。つまり、同じアイデアでまた違った感覚の画で表現すればもっとシャープなものになるんじゃないか、ということですね。」「それが、どちらかというと奇妙なその画風が彼の個性になってしまって、奇妙な画のままで今は洗練されてきましたね。そういう意味で、なまじ画風を変えなくて良かったと僕は思いますね。」
(ぱふ 1979年1月号 特集:諸星大二郎の世界「手塚治虫インタビュー 諸星大二郎を語る」)

デビュー時は垢抜けなかった奇妙な絵がそのまま洗練され、諸星の個性、言うなれば強みに変わったと評価しています。

「諸星大二郎は、今のマンガ家にない資質を持ってるね。この人の資質というのは……マンガと全く違う方向に向かってるね。つまり、マンガをマンガでないような形にしつつあるわけですよ。それがはずれているとか、そういうことじゃないのね。つまり、僕たちは無意識にマンガをマンガだという気で描いてるんですよ。これはもう恐らく、大友克洋達にしても誰でも“オレはマンガ家だ”という意識で描いてると思う。でも、彼はもしかしたらオレはマンガを描いてるんだ、という意識が無いんじゃないかな。ま、これは個人的な想像ですけどね。もちろん彼もマンガを描いてる自分というものを意識してる作品はありますけど。」
(少年/少女SFマンガ競作大全集 PART 5 特集:手塚治虫ANDニューウェーブの旗手たち「ワイドインタビュー 手塚治虫」1980年4月)

マンガとは違う方向に向かっている、というのは絵柄についてでは無く、ストーリーを含めた作品全体を評して言っているのですが、諸星作品の特異性を語っています。「オレはマンガ家だ」という意識で描いている側の例として大友先生の名前を挙げている点も注目です。このインタビューは「ニューウェーブ」マンガの描き手たちについて語るというもので、大友克洋がそのリストの先頭に挙げられているという事で名前が出ただけかも知れませんが、手塚先生の中では大友は自分と同じカテゴリーの作家だが、諸星は違う、という石坂先生が指摘した通りの認識があったのではないでしょうか。

一方、諸星先生の作品の中で「マンガを描いてる自分というものを意識してる作品」と手塚先生が位置付けているのは、先に引用した「ぱふ」のインタビューの後半と合わせて考えるとおそらく「ど次元世界物語」の事だと思われます。

(諸星作品で一番好きなものを訊かれて)「まあ『暗黒神話』がいいっていうこと、皆言ってますがね、そこまできちゃうとやはり大変マニア好みの作品なんですよね。で僕の評価としてね、「暗黒神話」みたいなものが本当にまんがとして優れた素晴らしいものかというと、もう少し奇想天外な、いわゆる“まんが”としての要素もいれてもらいたいという気がしますね。そういう意味ではあの奇妙な動物がいっぱいでてくるのがあるでしょ、「ど次元世界」ね、あれの方が僕は好きだな。つまりね、あれだとわけがわからんながらもとにかくおもしろいんですよ。」「これはあくまでもね、“まんが家”として僕は選んでるわけですよ。つまり“SF作家”として選べばね、また別にでてくるのであって……。」
(ぱふ 1979年1月号 特集:諸星大二郎の世界「手塚治虫インタビュー 諸星大二郎を語る」)

これは諸星大二郎の作品群について、「暗黒神話」などのシリアスなものではマンガの文法を外れた表現が使われ独自の世界を産み出している一方、ギャグ作品ではマンガならではの表現・荒唐無稽さが強く志向されている、といった形で、シリアスとギャグという内容の違いにとどまらず、表現手法の点で異なるベクトルを持つものが描かれている事を指摘しているのだと思います。その多忙さ、多作さが有名な手塚先生ですが、にも関わらず諸星先生の作品をすごく読み込んでいたのでは……?と思わせられます。いや諸星大二郎だけでなく、大友克洋はじめ、話題になった若手の作品は全部読み込んでいたのかもしれませんが……。
(ところでこれらの二つの路線がうまく融合した結果、手塚先生が言うところの「マニア好み」から脱する事に成功した作品が「栞と紙魚子」シリーズですよね。残念ながら手塚先生はそれを読む前に亡くなってしまいましたが。)

最後は先ほども引用した「スーパー鼎談 手塚治虫、諸星大二郎、星野之宣」から、

(アシスタントを使っているかという話から、作画の話に)
手塚「おたくの作品、ベタあるんですか?」
一同「(爆笑)」
諸星「いや、最近はベタもあります(笑)。トーンも使ってるし。」
手塚「あ、そうか。いや、諸星さんの絵というのはね、昔の山川惣治を思い出すんですよ。ベタまで全部斜線でつぶすみたいなね。『暗黒神話』とか『孔子暗黒伝』なんかはそんな感じですよね。(略)」

(星野の作画について、つかれるとつい「大友さんタッチ」を真似してしまうという話に続けて)
手塚「諸星さんなんて、つかれるとどんな絵になるの?」
諸星「荒っぽくなりますね、ぼくは。」
手塚「荒れるだけですか? たとえば、『西遊妖猿伝』に出てくる、例の講釈師のコマは背景何もないよね。あれはつかれたとき描くんですか?(爆笑)昔の諸星さんの絵は、どのコマ見ても――特に『暗黒……』なんてのは、バッチリどのコマも描きこんでるでしょう。」
星野「息を抜かせないという。」
手塚「いまは、ちゃんと手を抜く方法を考えておられるの?」
諸星「そういうことを覚えてしまったんです。」
一同「(爆笑)」
(手塚治虫対談集3「諸星大二郎 星野之宣 メジャーとマイナー」 同稿の初出は 1985年6月 月刊スーパーアクション 25号「スーパー鼎談 手塚治虫、諸星大二郎、星野之宣」)

ここでは絵柄の面で、(所謂マンガ家が使う描き方の)ベタが無いのではないかとか、かつてはコマごとの緩急が無く背景が高い密度で描かれていたといった点を指摘して、諸星先生の作画が一般的なマンガの作画と異なっている事を指摘しています。それもちょっとイジるというか、笑いにつなげる様なニュアンスが感じられます。食事会で大友先生の絵を「描ける」とつい言ってしまった後に、オチをつけるために諸星先生の名前を出した、という推測もあながち間違いではないのかも知れません。

以上をまとめると、手塚治虫は諸星大二郎の作品について、絵柄も内容も自分たちが描いてきた「マンガ」とは異なる方向性を持つ無二の個性である認める一方で、絵柄のみに注目するとその異質さがちょっと笑えてしまう所もある。と考えていたのではないでしょうか。

最後に、こういった諸星先生の特異な絵柄がどこから来たのかについて、きたがわ翔先生のブログに、これはまさにそうかも……!と思わされる指摘がありましたので紹介します。

絵の面で一体誰の影響を受けているのか全く謎とされるオリジナリティの強い諸星大二郎先生について。クソオタの私は岡田先生の影響が少し入っているのでは?と正直勘ぐっているのです。おいおいどこがっ!?とおっしゃる方、意外かもしれませんが岡田作品のピグマリオンや赤い蔓草あたりの絵を初期の諸星先生の絵柄と比べてみると良いかと思います。諸星先生のデビューも実はCOMでしたから案外可能性はあるかと思います。
宝石の原石かつ天然不思議少女!?岡田史子先生について | きたがわ翔のブログ 2017-12-23

比較されてる絵の説得力に加えて、かつて諸星先生が「COM」について語ったインタビューで、同誌でも特に注目していた新人として岡田史子を挙げています。

「『ぐら・こん』で若い人、岡田史子たちが出てきたのが印象深かった。『COM』は全ページ読んでいましたが、岡田さんはユニークで、好きでしたね。」
(東京人 No.341 2014年7月号 特集:ガロとCOMの時代「諸星大二郎インタビュー」)

岡田史子先生は「COM」創刊2号目(1967年2月号)の「ぐら・こん」でデビューし、その後も「COM」誌上で作品を発表。一方、「COM」を創刊号から読んでいた諸星先生は読者からマンガの投稿を募る「ぐら・こん」コーナーを見るうちに自分も投稿を考える様になり、初めての投稿である「硬貨を入れてからボタンを押して下さい」が1970年5・6月号で「月例まんが賞第3席」に入賞、同年12月号で「ジュン子・恐喝」が「月例賞」を受賞してデビュー(上記「東京人」インタビューによる)という事で、デビュー前の投稿時代の諸星先生にとって、岡田史子先生はマンガ家としてのロールモデルの一つだった可能性があります。

しかし、虫プロの「COM」からデビューし、その後も「手塚賞」を受賞して少年漫画の世界に入った諸星先生が、手塚先生からは「僕たち」マンガ家とは別のカテゴリーの作家と見られていたというのは、諸星先生らしい良い話だなと感じる部分と、もしかしたら諸星先生はそう見られるのは嬉しくなかった事もあったんじゃないかなとか思ってしまう部分もあって、複雑ですね……。